2014年12月20日

科学は間違いをどう償うべきか

昨日、理化学研究所の会見があった。もう皆さんもご存じだろう。例のSTAP細胞は「再現できない」という会見だ。

昼間のニュース速報で結果だけを知ったとき、ああやっぱりそうだろうな、と思った。これで1つの区切だな、と。ところが家に帰ってテレビでニュースを見た時、私は初めてこの会見の本当の意味を知ってあ然とした。それは会見で質問するある記者の発言をめぐってのことである。

その記者は、小保方氏の退職を理研が認めたことが納得できないようで、なぜ認めたか、認めることに妥当性はあるのか、と理研の理事を問い詰めていた。彼の発現の骨子は「小保方さんのようなことをした人は、普通、会社や大学では懲戒免職になるのが当然でしょう。なぜ理研は非常識にも退職願を受理したのか?」というものだった。

小保方さんのようなこと、とはいったいどんなことだろう。どうやら記者は小保方氏が意図的にSTAP細胞というありもしない現象を作りあげて世間を躍らせ、国民の税金をヤマほど無駄づかいした犯罪者だと言いたかったようだ。しかし本当にそうだろうか?いやどこにその証拠があるのか。今明らかになったことは「小保方氏の報告した結果は、科学的に考えて、もし本当にあるとしても、本人をしても再現することが極めて難しい現象であったという結論に理研は至った」ということだけだ。

記者の話しに戻ると、質問を受けた理事は慎重に言葉を選んで回答したが、それは記者の求めたものとは違ったようで(だいたい記者という人種は自分の考えに合致した回答しか認めない傾向がある)、両者の疑惑の溝は益々広がるばかりだった。末に、一旦終了した会見だったが、そこに登場したのが検証チームの責任者の相澤慎一先生だ。

「このような検証実験のあり方は「科学」のあり方からすれば本来あってはならないものだった。」

私には相澤先生があの様な発現をした気持ちがよくわかる。それは私がこの事件にずっと感じていたものと共通するものだった。理研の、しかも検証実験の責任者があのような発現をしたことが妥当かは議論の余地はあるが、相澤先生は科学者として、あまりにもことが科学の枠を超えて、まったく非科学的な意図によって解釈されていく様を見て、一科学者として考えを伝えなければ、と思われたのだろう。

しかし、この相澤先生の発言についてもいろんな意見があるようだ。あるニュースキャスターはこれを問題視し、理研の責任感の無さを表出するものだと断罪した。そもそもニュースキャスターはそういう役目だからここではそれについてこれ以上コメントしない。

私は、やりきれない想いから、ここで一言もの申したい。社会は小保方氏のように世間を騒がした研究者は非常にきついペナルティを受けるべきだと盲目的に思っているようである。もちろん「この事件」の特殊性から考えると、今回はそれなりに一定の責任を取らせる必要性は感じる。しかし私が怖れるのは、一般論として研究成果の過ちに対して社会が非常に厳しい反応を見せていることだ。

もし、ある研究者が、悪意がなく単に間違った研究成果を得てそれを発表してしまった場合、その科学者を犯罪者として一生その人生を封じこめてしまって良いのだろうか。前にも書いたが失敗は誰にも起こりうる。それに対する責任はある程度取らせるにしても、その後で立ち直る余地を充分に残す寛容な社会でなければ、社会は閉そく感に充ちて発展性が失われる。

いったい科学者はこの先どんな希望を描いて研究を進めていけば良いのだろうか。そして世論は我々科学者をどのように扱っていこうとしているのだろうか。世間知らずの弱者としてだろうか。常に監視していなければ何をしでかすかわからない爆弾としてだろうか。それとも社会は、科学者に尊敬の目を向けて、その判断を最大限尊重し受け入れるべきだと考えているのだろうか。私は社会に(少なくとも昨日質問した記者に)、「科学」というものをどう捉え扱おうとしているのか、その見識を問いたい。


posted by miyake at 18:00| Comment(0) | つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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